大判例

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大阪高等裁判所 昭和43年(う)624号 判決 1968年9月10日

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

<前略>

論旨は、原判決の訴訟手続の法令違反、事実誤認、法令適用の誤、及び量刑不当を主張するのであるが、所論にかんがみ記録及び当審における事実調べの結果を精査し、先ず訴訟手続の法令違反の主張につき考察する。

所論は、原判決は審判の請求を受けた事件につき判決をせず、又は審判の請求を受けない事件について判決をしたもので、刑事訴訟法三七八条三号の事由があり、仮りにそうでないとしても、同法三七九条に該当し破棄を免れない、というのであるが、起訴状によれば、本件公訴事実は、「被告人は自動車運転の業務に従事するものであるが、昭和四一年一一月二日午後五時〇分ごろ、軽四輪乗用自動車を運転し、大阪市生野区新今里町二丁目五一番地先の交通整理の行われていない交差点を東方から西方に向い直進するに際し、前記交差点の左右の見とおしが困難であつたのに、一時停止または徐行し左右道路の交通の安全を確認すべき注意義務を怠り、漫然時速約三〇キロメートルで同交差点に進入した業務上の過失により、北方道路より同交差点に進入してきた桜井弘(当二四才)運転の普通貨物自動車に自車右側を衝突させ、その反動で自車を左に横振りさせ、折柄歩行中の大坂イワ(当七一才)に自車左後部を接触させ、よつて同人に対し全治約一週間を要する腰部打撲傷の傷害を負わせたものである」というのであるところ、原判決は、「被告人が時速約二〇キロメートルで西進して右交差点に進入した際、同交差点右方の道路から桜井弘の運転する普通貨物自動車が時速約三〇キロメートルで当該交差点に進入しているのを約五、九メートルの右斜前方に認めたが、このような場合、自動車の運転者としては、ただちに一時停止するかまたは自車の方向を左に変える操作をする等右自動車の動向に応じた措置をとつて右自動車に進路を譲り、もつて事故発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、自車がさきに該自動車の進路前方を無事通過できると速断し、従前の速度で自車を走行させた過失により、当該交差点の中心附近にいたつて右普通貨物自動車の前部に自車右側後部を衝突させ、その反動で自車を左に横振りさせて折柄歩行中の大坂イワに自車左側後部を接触させた」と認定しており、起訴状摘示の過失と原判決認定の過失とは若干その態様を異にしているけれども、その基本的事実関係は彼此同一であるから、原判決は審判の請求を受けた事件につき判決をしたものと評価することができる。従つて原判決が刑事訴訟法三七八条三号に該当するものとはいえない。

また原判決認定の過失は、要するに被告人の本件交差点進入の際の一時停止、交通の安全確認等の注意義務の懈怠、桜井の車との接触回避の操作の不履行等をその骨子とするものと思料され、起訴状摘示の過失との間に重要な基本的部分において差異を認めがたく、被告人の防禦に実質的不利益を生じたとは言えないから原判決が訴因を変更することなくその過失を認定したことも、同法三七九条に該当する瑕疵があるとは考えられない。

以上要するに原判決には所論のような訴訟法の違背はない。

次いで事実誤認の論旨について考察するに、先ず事故前における被告人と桜井との両者の関係位置につき検討すると、桜井は原審における第一、二回各証言において、事故直前における彼我の関係位置、衝突地点等については実況見分調書の記載が正確であつて、原裁判所の現場検証の際における自己の指示説明よりも、実況見分の際におけるそれの方が正しい旨確言しており、実況見分を行つた警察官である原審証人深見十三日、同沼田徳人等は実況見分の際における被告人及び桜井の現場指示は両者とも一致していることや、実況見分は事故後一時間乃至一時間半の間に施行されたものであつて被告人及び桜井の記憶が鮮明であつたと思料されるのに反し、原裁判所の現場検証は事故後八個月以上も経過した昭和四二年七月二〇日施行されたもので右両者の記憶が薄れていたと思料されるし、また本件の成行に対する両者の思惑も介在して作為的な現場指示をする可能性もあると思われるから、事故の状況については実況見分調書記載の関係位置が正確であり、原裁判所の検証の際における両者の現場指示は必ずしも真相に合致するものではないと考えられる。(従つて実況見分調書の信用性がないという弁護人の主張はむしろ失当である。)

ところで実況見分調書添付見取図によると、被告人は(イ)地点まで、西進して来た時に桜井の車を(1)地点に発見し、桜井は(1)地点まで南進してきた時に被告人の車を(イ)地点に発見しており、(1)地点と衝突地点との距離は6.6メートル、(イ)地点と衝突地点との距離は2.0メートルであることが認められる。従つて被告人及び桜井が相互に相手を発見してから衝突地点に至るまでの速度を比較すると、被告人の速度は桜井の速度の三分の一以下であつたといわなければならない。そして桜井は実況見分の際に、事故当時時速約三〇キロメートルで走行していたと説明しているのみならず、原審での第一、二回証言においても右の速度で走つていたと供述しているから、桜井が(1)地点に至つた際の速度が時速約三〇キロメートルであつたことは動かし得ないところであるといわなければならない。ところで右見取図中桜井の説明の欄に桜井が(1)地点で急ブレーキをかけた旨の記載が見られるが、この点につき桜井の原審における第一、二回証言によれば、同人は(1)地点においてはブレーキペタルの上に足を置いただけで未だ踏み込んではおらず、実際にブレーキペタルを踏み込んで制動をかけたのは衝突の瞬間であつたと解せられるから、実況見分調書の右記載は桜井の説明不充分に基くものであつて、右記載によつて(1)地点から桜井の車が減速したと解することはできないのであつて、桜井は(1)地点から衝突地点に至る間においても時速約三〇キロメートルの速度で交差点を通過しようとしたものと認めざるを得ない。そうすると被告人の(イ)地点から衝突地点に至る間の速度は桜井のそれの三分の一以下即ち時速約一〇キロメートル以下であつたと推認される。

従つて被告人の交差点進入時の速度が時速約一〇キロメートルで徐行していたとの弁護人の主張は優に裹付けられることになるわけである。

もつとも、右見取図中被告人の説明の欄のうちに「被告人が時速約二〇〜三〇キロメートル以下で東から西に向け進行中」との記載が見られ、かつ被告人の司法巡査に対する供述調書中にも、「時速二〇キロメートルから三〇キロメートルの速度で進行中(イ)の地点で北から南に向けて進行してくる①車輛を認めました」との記載が見られるが、この点につき被告人は原審公判廷において、交差点に進入する際時速約一〇キロメートルに減速した旨主張したが警察官が私の言つたことを控えてくれなかつたと供述しており、前説示の桜井の速度との対比から考えると、被告人の右弁解はあながち自己の罪責を免れんがための遁辞であるとは思われないのに、捜査官がこれを取上げなかつたのではないかと疑われる節がある。

ところで実況見分調書、原裁判所及び当裁判所の各検証調書によれば、本件交差点は交通整理の行われていない見通しの悪い交差点ではあるが、被告人が走行していた東西道路の巾員は10.07メートル、桜井の走行していた南北道路の巾員は6.4メートルであつて、被告人が走行していた道路は道路交通法三六条にいう巾員が広い道路にあたるものといわなければならず、両道路とも車輛の交通量は左程多くはなくしかも桜井の走行していた道路が被告人の走行していた道路よりも交通量が多いとは決して言えないことが認められる。

そうすると本件交差点が交通整理の行われていないしかも左右の見通しの悪い交差点であるにしても、一時停止の交通規制は行われていない場所であるから、被告人は本件のような具体的場合道路交通法四二条による徐行をすれば足り一時停止までも義務はなかつたものと言わなければならない。そして被告人の交差点進入時の速度は前説示のように時速約一〇キロメートル以下であつたと認められるから、徐行義務を果したと言わざるを得ず、しかも一時停止の義務はないから、起訴状にいうように一時停止又は徐行する義務を怠つたといえないことは明らかである。また起訴状では、被告人が左右道路の交通の安全を確認すべき注意義務を怠つたと言つているが、実況見分調書及び前記各検証調書を綜合すると、被告人が南北道路の右方を見通しうる限界線まで西進してきた時には、桜井の車の速度から考えると、桜井の車は未だ被告人の視野には入つていなかつたと考えられ、被告人が前記(イ)地点に至つて初めて(1)地点に桜井の車を発見したことは、被告人が左右道路の交通の安全を確認すべき注意義務を怠つたことにはならないと思われる。

また原判決は、被告人が桜井の車を右斜前方に認めた際直ちに一時停止するか又は自車の方向を左に変える操作をする等の措置を採つて右自動車に進路を譲る義務があるというが、被告人が(イ)地点において急制動をかけたとしても空走距離と滑走距離を加えたいわゆる制動距離は一般的には時速一〇キロメートルの場合2.1メートルと考えられており、一時停止すべく急制動の措置を講じても、減速することなく直進してくる桜井の車と衝突することは不可避であり、自車の方向を急に左旋回せしめても衝突を免れ得るとは断定できず、しかも交差点南西角にある人家に自車を衡突させることは必至であつたと考えられるから、そのような措置を採るべきことは被告人に期待してはならないはずである。被告人が司法巡査に対し起訴状記載の過失を認める趣旨の供述をしているのは誘導に迎合したものと思料される。

被告人は原審公判廷において桜井の車を発見して前方に逃げようと思つてブレーキをかけず前方に直進した旨の供述をしているが、被告人としてはそうするより外に方法はなかつたものと認められる。そして却つて本件事故の原因は、桜井が本件のような交差点に進入するに際し、時速約三〇キロメートルのままで、減速徐行することを怠り、巾員の広い東西道路から殆んど同時に交差点に進入した被告人の車に進路を譲ることなく直進してその進行を妨げたことに在るのであつて、本件事故は桜井の一方的過失に起因するものであつて、被告人には本件事故につき起訴状摘示乃至は原判決認定の過失は勿論のことその他なんらの過失も認められないから、原判決が前記のように被告人の過失を肯認し業務上過失傷害の責を負わせたのは、事実を誤認したものであり、その誤りは判決に影響を及ぼすことが明らかである。

よつてその余の論旨である法令適用の誤及び量刑不当の主張に対する判断をするまでもなく、原判決は破棄を免れないから、刑事訴訟法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により、自判するのに、本件公訴事実については犯罪の証明がないから、刑事訴訟法三三六条により被告人に対し無罪の言渡をすることとし、主文のとおり判決する。(児島謙二 今中五逸 木本繁)

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